■サンプル 我が子へ、孫たちへ

高橋道也

 自分の人生をまとめたい、記録を残したいと、ずいぶん前から考えていました。
 とんでもない山奥で貧乏に耐え、東京で苦労し、小さな会社を持つことができました。
 仕事の現場から離れてもう10年、私のような人間がいたことを覚えて欲しいと、冊子として残すことにします。

幼少期

 昭和19年に4人兄弟の3番目として生を受けました。
 生まれたのは途方もない山の中です。
 父親は復員兵で、負傷して本土に帰され、それを申し訳ないと考えているような人でした。
 帰兵して国から土地を与えられましたが、それがとんでもない山の中でした。山の南面ならまだしも北面で、それでも父は不平も言わずに不自由な体で荒れた耕地を耕していました。開墾しなければならないのです。
 私たち兄弟も手伝いました。細い腕でクワを使いました。兄も手伝います。姉は小さな妹をおんぶして野良仕事をしていました。

 物心ついたころからいつも腹が空いていました。ときおり父が取ってくるキジや山鳩がご馳走でした。山菜やキノコもとって来ました。

小学校のころ

 小学校は山の下にあります。40分ほど道もないような山肌を歩くとバス通りに出て、そこから30分ほど歩くと小学校がありました。小学校の裏には役所や酒屋、雑貨屋などがあって周囲の村の中心部になっていました。

 戦後はみんな貧乏でした。
 それでも日本は復興し、少しずつ豊かになっていきます。しかし、私のうちはいつまでも貧乏でした。ずっと貧乏が続いていました。
 靴もなく、母が編んだ草履を履いて、小学校まで通いました。
 ズボンもシャツも母の手作りで、これほど布を継ぎはぎしているのは私だけでした。
 身体検査になると下着になって体重を量ります。しかし、私は下着なんかはいていません。同級生がパンツ一つになっているのに、私は継ぎはぎのズボンをはいたままです。
「高橋君、ズボン脱ぎなさい」と先生が言います。
 私はズボンだけですから脱ぐに脱げません。黙ったままでいると級友が
「だめだよ、こいつパンツはいてないから」
「ズボン脱いだらフルチンだ」
「すっぽんぽんだ」といってはやし立てます。
「……困った子ね」とてもいやそうに先生は口にしました。
 1年、2年の担任であったこの女先生にいい思い出はありません。こんないやな人はいませんでした。

 自分の貧乏話を作文に書いて、県の展覧会で賞をもらったことがあります。
 毎日食べるものがない、着るものもない。畑に出ても腹が減ってクワが持ち上がらない、力が入らないから土を掘り起こせない。そんなことを書いたら県が誉めてくれたのです。
 これを喜んで母に告げたら、
「こんなみっともないことを……」と母は怒りました。
「あいつらは面白がるばかりで、1円もくりゃあしない、給食費も出してくれない」とも言いました。

 給食費を払えませんでした。給食費を持ってこいと毎日言っていたのはあの女先生でした。
 小学校に入ると給食があります。しかし、給食は給食費を払わないと食べることはできません。クラスでは給食費を集めますが、私だけが払うことができません。家には1円もないからです。
 母に給食費をくれとせがんでも出るわけがありません。
 毎日この女先生に「給食費を持ってこい」と言われます。しかし、ないものは出せません。
「給食費の払わない子には給食を食べさせることはできません」と宣言し、私の給食がなくなりました。
 友だちが楽しみながら給食を食べているのを見ているのは、とてもつらいことです。級友はコッペパンを食べたり、食パンを食べたり、脱脂粉乳を飲みます。
 次の日に私は給食の時間に、教室の外に出て、ひなたぼっこをしていました。
 そうしていると女先生が
「道也君、教室に入りなさい。給食は礼儀を学ぶ教育の一環です。ごちそうさままで教室にいなさい」と怒られました。
 なんて意地の悪い先生なんだろうと、心の底から思いました。給食費を集金するためにクラスメイトを私のうちまで寄こしたこともあります。このような屈辱を忘れることができません。

 これは60歳を過ぎてからのことですが、郷里で小学校の同期会があり、懐かしい仲間が集まりました。その女先生も招待されていました。
 その先生のいる輪に入ったのですが、我慢できずに私は小学校の時の給食費の件を話しました。半分冗談交じりです。
「え?ぜんぜん覚えていない」と笑います。
「本当に覚えていないんですか」私はびっくりしました。
「僕がどれだけ傷ついたか覚えていないんですか」と先生に迫りました。
 先生は少し黙りました。
 そのとき、隣にいた美子さんが
「私覚えている。先生に言われて高橋君のうちまで給食費取りに行ったことがある。すごいいやだった」
「私も」と竜子さんも言いました。「先生に言われて高橋君のうちまで給食費取りに行った。なかったけど」
 女先生は首をかしげます。「あら、そうだったかしら……」

 それから1カ月ほどしてからのことです。東京の私の自宅に女先生から手紙が来ました。謝罪の手紙でした。でも、本当に記憶がないとも書いていました。

 薪を持っていくことができませんでした。小学校には薪ストーブがあり、その薪を生徒が持参してくべていたのです。その薪さえ持っていくことができず、同級生に嫌がられました。その悔しさ、悲しさは一生忘れることがありません。

 小学校6年生の時に大阪に修学旅行に行きました。初めての都会でした。汽車にも初めて乗りました。
 何より驚いたのは300円のお金を持たされたことです。こんな大金を持ったのは初めてでした。何に使ってもいいと言われましたが、どう使えばいいのかわかりません。
 おみやげを買おうと思って、ずいぶん迷いました。
 母親が「針の穴が小さくて糸も通せない」「兄ちゃんから手紙が来ても文字が小さくて読めない」といっていたのを思いだして、虫眼鏡を買いました。
 母はとても喜びました。
「自分のものを買えばいいのに」とも言いました。
 母は亡くなるまで虫眼鏡を使っていました。

 勉強は好きでしたが、する暇がありませんでした。
 学校から帰るとすぐに野良仕事に出なければなりませんし、夜は電気も通っていません。鉛筆も消しゴムも買うお金がありませんでした。
 絵を描くのも好きでしたが、絵の具も画用紙も買えません。
 自然豊かなふるさとだと人はいいますが、これらを楽しむゆとりがありません。山から平野を見下ろして絶対にここから出て行ってやると心に決めていました。遠いところへ行って金持ちになるんだと歯を食いしばって生きていました。

上京

 中学校3年の秋になると、就職先の一覧が廊下に貼り出されました。どれを見てもよくわかりません。しかし、港区という住所の会社がありました。
「母ちゃんはね若いころ大阪の港区に住んでいたことがあるの。暖かくていい所よ」といっていたのを思いだして、応募しました。先生が書類を出して、就職先が決まりました。
 1週間して本採用の通知が来て、よく見るとそれが大阪ではなく、東京の港区だということがわかりました。
「そりゃ違うわ。東京はだいぶん遠いわ」と母が言いました。
 先生に相談しましたが、逆に怒られる始末でした。とても変更などできません。
 翌年の3月に生まれた家を離れ、上京しました。父も母も泣いていました。

 上京したのは、昭和34年のことです。昭和31年には「もはや戦後ではない」といわれ、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」として喧伝されていました。東京はビルと人が多く、田舎の村とは異次元の世界でした。
 東京駅には若社長と奥さんが迎えに来ていました。
 二人は私を連れ、丸の内口のレストランでカレーライスを食べさせてくれました。カレーライスは初めてではありませんが、あまりのおいしさにびっくりしました。食べたことのない味でした。でも、緊張と不安で満足に味わうことができませんでした。

 小さな町工場で、プラスチックの部品を作っていました。門から入ると庭に洗濯物やおしめが干してあり、その奧に小屋のような工場がありました。40代から50代のおばさんを4人ほど使っていました。
 月に何回か、ネクタイをした営業マンが工場に来て、若社長と打ち合わせをしていました。
 若社長と奥さんも毎日工場で働いています。
 その二人がいなくなると、おばさんたちが私に言いました。
「なんでこんなところに来たの?」
「給金は安いし、仕事はつまらないし……」
「あんたみたいな若い子がこんなところにいちゃダメだよ」
「そうよ、もったいない」
 と皆が言います。
 確かにそんな気がしました。おばさんたちも数カ月で入れ替わっていました。
 1年で仕事内容はまったく変わりません。
 2年目も仕事は変わらず、単純労働で、給料も上がりません。
 仕事に疑問を感じて、この工場は2年で辞めました。

 五反田にある柔道の道場に通っていました。このころ柔道家の姿三四郎が大変なブームとなっていました。体の小さな三四郎が大きな体の柔道家や空手家、ボクサーを破っていき、喝采を送っていました。私も体が小さいものだから、三四郎のようになりたいと道場に通ったのです。
 そこで知り合った先輩が「うちに来ないか」と誘います。
 もう、プラスチックの仕事に嫌気がさしていたので、何の仕事かわからないまま、工場を辞めて、先輩の工場に移ったわけです。
 ところが、ここがひどく危険な工場でした。1000度を超えるような大きなボイラーがあって、ねじなどの部品を作っているのです。そのボイラー担当となり、汗だくになって作業しましたが、あまりに危険なため、ここも3カ月で辞めました。

自動車整備整備士へ

 次に移ったのが、上野にあった自動車整備工場です。
 新聞の三行広告を見て、申し込んで面接を受けに行きました。
 面接官が原部長でした。
「なんでうちの会社に来たいのかな」と部長は聞きます。
「自動車の整備士になりたいからです」と、私は大きな声で答えました。
「なぜ整備士になりたいの?」
「これからは自動車の時代だからです」と答えました。
「いいことだね。そのとおりだ」原部長は微笑みます。
 このころは自動車の数が急激に増えて、モータリゼーションと呼ばれていました。東京は車であふれていましたし、道路もどんどん広がっていました。まだ十代だった世間知らずの私も、自動車の時代が来ていると感じていました。
「しかしねえ、扱っているものが高級だから、うちには採用の条件が2つある。1つは自宅から通っていること。もう1つは保証人がいること。残念だが、君の場合、この2つともない」
 私はとっさに答えることができませんでした。少ししてから「それでも私は整備士になりたいと思います。手先は器用です。お願いです、働かせてください」と、立ち上がって頭を下げました。
「しかしねえ、うちは寮もないし……」
「お願いします」
 実際、帰るところもありません。頼る人もいません。この会社に拾ってもらわなければ、路頭に迷います。
「お願いします。一生懸命働きます。勉強もします。整備士にしてください」と、何度も訴えました。
 30分ほどこんなことを繰り返したでしょうか。
「わかった」と、ついに部長が言いました。「そこまで言うなら、雇いましょう。住むところはアパートを借りてあげます。その代わり賃料は給料の中から自分で払うこと。そして、保証人は私がなります。それでよろしいですか?」
「ありがとうございます」と、私は涙ながらに言いました。
 そのまま会社を出て不動産屋に入り、アパートを決めました。会社から歩いて10分ほどのところで、4畳半4500円でした。この時の保証人も原部長がなってくれました。
 あのころだからできたことで、今では夢物語でしょう。
 この会社に入ったことで今の私があり、今の会社があります。すべて原部長のおかげです。

 会社に入って、がむしゃらに働きました。夢中でした。
 会社では整備士を目指して、一から教えられました。点検、分解整備、検査などを現場で学び、やりがいがありました。整備士になるには国家資格が必要で、当時は2級と1級があり、2級なら専門学校を出ていなくても、仕事しながら取ることができます。
 自動車整備士の資格だけではなく、溶接技能資格もとりました。

 しかし、相変わらず食べるものがありません。いつもお腹を空かせていました。
 コッペパンが1個15円でマーガリンを付けると20円。これで1週間過ごしたこともあります。コッペパンを7等分に切って毎日食べるのです。
 貧乏や空腹には慣れています。腹が減ったら水を飲んでしのいでいました。

 会社では渡部君という同僚がいて、仲良くなりました。彼は川崎から通っており、家に招かれてご飯を食べさせてもらうこともありました。
 私のアパートに遊びに来ることもあり、2人で銭湯にも行きました。当時風呂代は15円でした
 その渡部君が宗教団体に入ってくれと言います。何のことかわからず日曜日に会合に一緒にいくと、お寺なのでびっくりしました。宗教であるということさえ知っていませんでした。進められるままに入会しましたが、2年で脱会しています。会社の激務と宗教団体の毎日の活動両方はとても無理でした。寝る暇もなくなり、これでは体が保ちません。

独立へ

 ところが、宗教団体の脱退で会社の同僚との関係が悪くなり、最初の自動車整備工場を辞めることになります。
 松下モーターの社長が声をかけてくれ、行方をくらますように松下さんの会社に移りました。
 港区三田にある会社でした。港区なら土地勘があります。
 松下モーターは「モーター」とあるものの、専門の自動車整備士がいませんでした。自転車屋さんで、自転車を売ったり、修理したりする小さな会社でした。しかし、これからは自動車の時代だと社長が商売の拡大を目指し、技術者を探していました。私は資格を持っていましたし、十分な技術力もあります。それを見込んで社長からスカウトされたのです。
 看板を変え、広告も出すとお客様も順調に増え、私は次第に多忙になり、社長の期待に応えることができました。工場に必要な設備を整え、整備士も採用しました。

 新しい技術も取り入れていきます。
 こんなことがありました。
「松下モーターに車検と整備を頼んだら、車が走らなくなった」というのです。3ナンバーの外車で、エンジンはかかるものの、車が動かなくなったというのです。どうやらその車は新しく出たオートマチック車で、これが原因のようです。国産のオートマチック車は出たばかりで、これならメーカーに聞けばいいのですが、外車ではどうしようもありません。販社に聞いてもわかりません。国産車のトラブル事例を調べましたが、どれも当てはまりません。
「他の工場に持って行ったら、80万も90万もかかると言うんですよ。これなら新しい車を買った方がいい。何とかしてくださいよ」とお客様は苦情を言います。もっともなことです。
 知り合いに聞いたら、青山に自動車専門の本屋があり、そこで調べてみたらどうかと言います。さっそく行って「オートマチック車のマニュアル」という本を購入して帰ってきました。8000円もするとんでもなく高価な本でした。
 すべて英語で解説しています。これを辞書を引きながら調べ、図と照らし合わせて、オイルが悪いのではないかと検討を付けました。
 車のオイルを見ると劣化してマヨネーズのようにドロドロになっていました。これをサラサラしたオイルに交換したところ、やっと外車が走り出しました。
 「高橋さん、こんなことまでできるんだ」と、社内もお客様も驚きました。
 これで給料が倍になりました。その後もトントン拍子に給料は上がっていきました。
 1970年代は2度のオイルショックがあってガソリンが高騰、自動車業界には苦しい時期でした。しかし、確実に成長していました。
 そして、1979(昭和54)年に独立し、自分の会社を持つことができました。1980年代は日本の黄金期で、会社を成長させることができました。

瀕死の結婚式

 最後に結婚式の時の話をします。
 結婚は28歳、昭和47年の時です。日本経済も会社も急成長をとげているときでした。日本中に高速道路が拡張され、自動車は日本の基幹産業となっていました。
 当然松下モーターも多忙を極め、普通一人で車検1日1台が相場なのに、私は3台も担当することがありました。日曜日も祭日も休まず働き、会社に泊まり込むこともありました。
 そんなさなかでの結婚です。
 妻は会社の事務をしており、付き合い始めてもデートする暇もありませんでした。
 新婚旅行はハワイと決まり、その相談もしなければなりません。ほとんど妻にまかせきりでしたが、私がいない間の車検を前倒ししてこなさなければなりません。
 異様なハードスケジュールの中で、ついに結婚式前日に倒れてしまいました。もともと、そんなに丈夫な体ではないのです。会社の早引きして、病院へ行き点滴を打ってもらいました。
 この体で結婚式に出るなんてとんでもないと医者に言われました。結婚式だけではありません。新婚旅行で羽田からホノルル行きのJALに乗らなければなりません。
 本当ならば結婚式を休んで体を回復させたかったのですが、持ち前の責任感からとてもそんなことは言い出せません。
 当日も点滴を打ってから式に出て、皆に顔色が悪いと言われるほどでした。
「大丈夫です」とは答えましたが、熱はあるし、吐き気はするし、目が回るし、座っているのさえおぼつかないほどでした。
「誓いの言葉を読んでください」と言われたときには倒れるかと思いました。
 式が終わると、そのまま羽田まで連れて行かれました。郷里の家族や友人が一緒です。
 帰るわけにもいかず、ふらふらしながら搭乗、飛行機は離陸しました。
 これでやっと倒れることができると思い、そのまま意識が遠のきました。
 ホノルルに着くと救急車が待っていました。英語で話しかけられても意味がわかりません。妻が心配そうに同乗し、手を握ってくれました。もう日本に帰れないかと思いました。
 病院では日本語のわかるスタッフがいて、脱水症状だろうと簡単に診察されました。
 お尻に注射されると、不思議と疲れもしびれも取れました。いったい何の薬を打ったのか怖いほどです。
 翌年慶一が生まれ、その2年後に貴子が生まれています。妻は会社を辞め、育児に専念するようになりました。
 その4年後に独立。妻は事務員として働き、家庭と仕事の両方に追われ、とても苦労をかけました。

 会社の経営も大変です。社員にお金を持ち逃げされたこともありますが、どうにか今の陣容に拡大することができました。
 貧乏と空腹に追われた一生でした。それでもどうにか人並みの生活ができるようになりました。家族にも社員にも感謝しています。
 私は一人ではありませんでしたし、あなたたちも一人ではありません。私がいつも見守っています。

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