■サンプル(小説風) 僕たちの脱走

これは物語の代筆です。
自伝と言うよりは小説ですね。
時々、このような小説化の依頼があります。
自伝を小説風にしたい人が多いようです。

僕たちの脱走

 大学1年生の夏休み、僕たちは北陸の小さな町で合宿をしていた。
 大学空手道部の夏合宿だった。飛行場近くの体育館だったから、飛行機がずいぶん低く飛んでいた。飛ぶという感じではない、ゆっくりと浮かんでいるように見えた。
 僕は疲れた体を止めて、荒い息をしながら飛行機を見上げた。そして思った。逃げたい、逃げ出したい。こんなところにいたら殺されてしまうと。
「こらあ!山手!」
 後ろから先輩の声がした。僕はあわてて駆け出す。
「早くめしの支度へ行けえ!」
「オス!」
僕は声を無理やり絞り出す。ちきしょう、いつか逃げ出してやる、必ず逃げ出してやる……。

 むちゃくちゃな稽古が続いていた。
 1年生は僕を含めて4人いたが、4人全員の体がガタガタだった。僕はあばら骨にひびが入っていた、後でわかったことだが。大声も出ない。寝返りさえも満足に打てない。それでも稽古は休ませてもらえない。
 夏合宿なんてね君、旅行みたいなもんだよ、と先輩は言った。女子大のサークルと合流したり、ナンパしたりのし放題よ、ひひひ。
 へえ、いいですねえ。と僕も笑って軽い気持ちで合宿に着いてきてしまった。
 ずいぶんひなびた体育館だったが、道場もちゃんとある。宿泊設備も整っているし、グランドも野球場もテニスコートもある。
 物珍しげに愛想笑いしているのも、合宿所に到着するまでだった。着いていきなり稽古があった。これが今まで大学でやっていたのとはとんでもない差があって、僕は恐怖すら感じた。
 グランドを何周も走らされてから、柔軟体操がある。腕立て伏せとスクワットがあり、これら準備体操が終わってから、果てしなく基本稽古が続く。突きや蹴りだ。午前中はこれらで3時間ほど。午後にはさらに組み手が1時間ほど加わった。
 2日目にはさっそく血尿があった。生まれて初めてのことで、僕は飛び上がるほどびっくりしたが、先輩はそうでもない。明日もそうだったら何とかしようという程度だった。
 どうしようと気を揉んでいたが、次の日は血尿にはならなかった。稽古は相変わらずきつくて、だいぶ複雑な気分になった。
 この辺りから1年生の足の裏がむけたり、体に青あざが増えたりしていった。
 あまりに過酷な稽古に目つきが変わり、顔つきもいびつになった。
 僕らがこれだけ苦しんでいるのに、3年生4年生は基本稽古に参加しない。1・2年生にだけ気合いを入れて、自分たちはパンダのようにのらりくらりしているだけだ。そして、組み手になると立ち上がり、いいように僕たちを痛めつける。
 こんなにきつい理由がわからない。自分たちがそうされてきたから、繰り返しているのか。合宿とはこのようなものだと考えているのかもしれない。質の悪い文化だ。

「もうガマンできないよ。きつすぎる。逃げたいよう、なあ、みんなでトンズラしようぜ」
 晩ご飯の後、泣き出しそうに渋谷が言った。合宿5日目だった。1年生が1年生だけになれるのは、食後の後始末をしている時だけだった。僕もすぐに後を追って言った。
「そうだ、たまらない。疲れた。こんなところ来るんじゃなかった。逃げ出したい」
 僕は胸が痛くて大声が出せない。
 稽古がきつい、ついていけない、逃げ出そう……。4人になった時のいつもの愚痴だった。
「うん、確かに稽古がきつすぎる」と、分別臭そうに大塚が言った。
「そうだな、きついな。疲れた、疲れたよ」と品川もうれしそうに言う。
「お前は本当に疲れているのか」と僕は言い返す。どうも品川の疲れ方がよくわからない。何しろ身長185センチで、高校の時、つまり去年のインターハイのボクシングライトヘビー級の準優勝者である。そんな奴だから叫び出すほどの苦痛はないのかもしれない。絵に描いたようなボクシング顔で、表情を読み取るのが難しい。
 ちなみに童顔で女の子のような顔をしている渋谷も高校のころから道場に通っていた。もう一人、分別臭い大塚は空手3段の猛者であり、小学校の時から道場に通っていた。まったく何にもしていない、格闘技の未経験者は僕だけであった。とんでもない環境に僕はいたのである。
「疲れてるよお」と、やはりニコニコして品川は答えた。
「でもなあ、品川がもう少し真面目にへたれば、品川でさえって先輩も思ってくれるかもしれない。俺らの気が楽になる」
 僕が言った。
「大塚もいまいち顔に疲れが出ていない」と、渋谷。
「そうかなあ」と、申し訳なさそうに大塚が答える。でも、みんな疲れていた。けがだらけだった。
「逃げ出したいなあ」
 また渋谷が言った。
「なあ山手ェ、逃げ出そうぜ。なあ」
 本当に困ったように渋谷は続けた。
「俺もう、クラブ辞めるよ。これじゃ続かない。俺さあ、恥ずかしいんだけど先生なりたいんだよね、教職」と、しんみりと話し出した。ちょっと皆が驚いた。
「本当さ。中学のころからそう思って、でも空手なんかやっていたらとても無理だ。卒業するのさえ危ない。勉強どころじゃないもの」
「そうかあ」大塚が落ち着いて答えた。
「それでさあ、逃げ出そうと思うんだ。なあ、山手、一緒に逃げ出そうぜ。ハンパな理由じゃ辞めさせてくれない。逃げるぐらいしないと」
「そりゃそうだ」
 僕ももうクラブを辞めるつもりでいた。確かに逃げ出す覚悟がないと、辞めることは無理かもしれない。
「どうでもいいけど、逃げたいよ。こんなの稽古じゃない。リンチだ」
 僕が言った。
 ここまで話した時に食堂のドアがいて蒲田先輩が顔を出した。
「いつまでめし食ってんだ。お前ら風呂いくぞ。早く来い」
 僕たちはあわてて食器を片付けて、足を引きずって食堂を出た。
「逃げ出すんなら僕だって逃げるよ」
 ぼそりと大塚が言った。みんな逃げ出したいんだ。話は何度も出たけれど、まだまだ本気じゃなかった。
 蒲田先輩は体重80キロ、身長180センチを越える豪傑だが、いたって人のいいおおらかな人物だった。僕ら1年生の稽古のきつさを理解してくれるが、無力だ。何の役にも立たない。その上の3年生が4人、4年生が二人いた。その先輩たちにまったく頭が上がらない。

 少し離れた銭湯の帰り、体育館の横の小さな店に僕ら4人は立ち寄り、先輩たちとはすっかり離れてしまった。
 トマトジュースをゆらゆら飲んでいる僕に、渋谷が寄ってきた。しょげきった顔をしている。
「なあ、山手。俺たちって結局ダメなのかなあ」
「ダメって、何が」
「逃げることがさ。いやそれだけじゃなくて、全部さ。なんのかんのってブツブツ言ったところで結局何にもできないのかなあ」
 ずいぶん渋谷は思い詰めていた。こんなことまで考えているのが意外だった。
「こんなふうに何もできないで、ズルズル合宿とおしちゃうの、いやだなあ、こういうのって。そして合宿が終われば終わったで、もう大喜びしてしちゃって、みんな忘れてはしゃいで……。根がバカだからなあ。納会でもあってキャッキャッて飲むのかなあ。シャクだなあ。悔しいなあ」
 僕はけっこう衝撃を受けた。
「いやだ……。それは本当にいやだな」と僕は言った。
「いやだろう」
 僕はこの時、はっきりを決めた。この合宿をとおすわけにはいかない。逃げ出すんだ。
 渋谷と二人で大塚を説得する。一緒に逃げ出そうと。
「うん、僕もしかたがないと思うんだ。できるだけ協力するよ」
「俺だって逃げるよ」と品川も賛成し、集団脱走が決まった。
 そうと決まれば話が早い。
 僕はタクシー会社に飛び込んで時刻表を調べた。午前2時41分、急行「北国」この列車を発見した喜びは大きかった。じっと乗っていればそのまま北へ逃げることができる。
 外で待っている連中に予定を教えた。
「夜中の2時41分だ。合宿所を2時ごろ抜けだそう。このタクシー会社に走り込むんだ」
 皆、少し黙った。
「いいかい。部屋に戻ったら整理にかこつけて荷物をまとめ上げちまうんだ。脱出口は先輩の部屋の前を通らないように、体育館を抜けて食堂の非常口から出よう。帰ったら鍵を外しておくんだ」
「すごいな、山手は」と、品川が言った。
「まだある。怪しまれないようにひそひそ話はしないこと。普通にしているんだ」
「うん、わかった。そうしよう」大塚が言う。
「さすが、手慣れてる」渋谷が頷きながら口にした。
「俺寝ちまったらどうしよう」不安げに品川が言う。
「起こしてやるよ」僕が言った。
「そうなんだ。みんな団結しなければいけない」抑揚少なめに大塚が言った。
「そうだ。団結だ」
 僕は繰り返した。

 部屋に戻ったのは9時近かった。掃除のふりして僕らはさっそく荷物をまとめた。荷物と靴を一緒にして出口近くに置く。
 蒲田先輩にいぶかしがられるわけがない。いい人なんだ。
 まもなく僕は大久保先輩のマッサージのために隣の部屋に呼ばれた。隣の部屋に3年生が4人、さらに隣に4年生が二人の部屋割りだった。
「やあ、いつもすまんなあ。さっそくやってくれ」
 寝そべっている先輩の足の裏から揉み始める。僕にマッサージなんてわかるわけがない。ただ力まかせにしごくだけだ。
 先輩の体を見て思った。この人なんだ。この人を見たのが間違いの元だったんだ。整った顔と恐ろしいほどの肉体美。骨だらけで貧弱な僕は、こんなふうになれるのかなあなどと勘違いしてしまった。
 春のことだ。狭い部室でこの人の話を聞いた。
「誰でもやれるよ、空手なんて。体が弱くても平気さ。そのうち強くなれる、絶対に」
「でも経験がなくて」
「大丈夫だよ。新入部員はみんな初心者さ」
「学生服はあまり好きじゃなくて」
「あ、この学ランのこと。これは必ず着なくてもいいんだよ」
「髪も切りたくなくて……。角刈りはどうも……」
「そのまま伸ばしていていい。切る必要ない。何にも気にする必要ない」
「はあ……」
「平気だから。入部しちゃえよ。何かに打ち込まなければ学生生活なんてつまらないぞ。空手はいいよ。健康的で明るくて。けがの心配もない」
「……」
 全部嘘だった。ことごとく嘘だった。よくもまあ、あれだけでたらめを言たものだ。多少脅かされたにせよ、それを信じた僕も浅はかだった。1カ月の仮入部などと言われて、辞めることもできずにいまだ続いている。
 時々先輩はうなったり、場所を示したりして、マッサージを味わっている。いい気なものだ。
「山手君、どうだったい、今日の稽古は」
 にっこりと笑って先輩は言った。稽古の時は厳しいが、普段は優しいんだよな、などと自分で言っている。この神経についていけない。
「オス、殺されるかと思いました」
「まあた、そんな過剰な。君はいつでもオーバーなんだから」
「いえ、オーバーではありません」
「よくないよ、君のその脚色癖」
 うるさい。本当に苦しかったんだ。床の頭をぶつけて失神した方が楽だと思ったほどだ。
「僕もねえ、1年の時は先輩にさんざん殴られたし蹴られたもんだよ。一度ねえ、泣き出したことがあって、うん、いいなあ、下、下。それでね、泣き出してね、苦しくってか、悔しくってか。よくわからないけど、涙が止まらないんだ。ううん、きっとそうやって強くなって、たくましくなるんだよ。かなりいい、君はマッサージの天才だ」
 好き勝手をベラベラと……。小便に血が混じったことがあるかって言うんだ。

 11時を過ぎると、灯りは消される。蒲田先輩は軽いいびきをかき始めた。
 渋谷と僕は部屋から出て脱げ道を確かめた。食堂から体育館に抜けて、非常口の鍵を外す。
「ここにあらかじめ荷物を運んで置いた方がいいな」と、僕は言った。
「うん、12時を過ぎたら運び出そう」
「そして1時半になったら二人ずつペアで部屋を抜けだそう」
「ここで落ち合って、タクシー会社へ走り込めばいい」
「ふふふ、完璧だ」
「くくく」
 ひととおり準備を終えてから、僕は窓際にある自分の蒲団に潜り込む。脱出までには、まだ2時間以上ある。蒲田先輩の鼻息はますます荒くなった。
 月の出ているのがわかった。僕は夜汽車に乗っている自分のことを考えた。
 12時、渋谷と大塚がひっそりと起き上がり、闇の中で荷物を運び出した。二人が微笑んだ。少ししてから品川と僕。
 4人は荷物を置いてから、部屋に戻って蒲団で脱出時刻の1時半を待つ。
 蒲田先輩は熟睡している。幸せな人だ。
 1時半、蒲田先輩のいびきがピタリと止んだ。
 ほどなく、いびきが戻り、渋谷と大塚が静かに部屋を抜けた。10分後、品川と僕が後を追う。
 はやる心を抑え、畳の上を少しずつ足を運ぶ。妙に落ち着いていた。動悸もない。蒲田先輩の顔もはっきり見ることができた。
 素足で廊下を歩く。足の裏のコンクリートがひんやりと冷たかった。体育館に月明かりが入っている。
 非常口の外に渋谷と大塚が待っていた。渋谷が指でサインを出す。
「へへへ、うまくいったな」
「汽車に乗るまでは安心できない」
 僕は答えた。
 4人でタクシー会社へ急ぐ。小走りになるのだが、足が痛くてまともに走れない。足を引きずるようにしか急げないのだ。
 駅に着いたのは、時計が2時を少し回ってからだった。深夜だ。人影はない。僕たちは落ち着きなく構内を歩き回ってから、待合室のベンチに座った。
 逃げ先の話になった。
「俺は東京に戻る」と渋谷が言った。
「どうしようかな、せっかく北陸まで来たんだから金沢に一泊しようかな」と、僕が言った。
「ずいぶん余裕だな」
 困ったように、品川が言う。逃げ先までは考えていなかったに違いない。
「下宿へ戻っても、すぐに先輩が追ってきそうな気がする」と、こぼす。
「そんなことないよ」僕は返した。
「そうかな」
「そうだよ」僕はなぐさめるように言う。
 切符を買ってからは何もすることがなかった。僕らはベンチに座ったままだった。不安を隠すために、ニヤニヤしたり、つまらなそうな顔をしたりしていた。
「寒いな」渋谷が言った。
「寒い」僕も言う。9月にしてはやけに寒い夜だった。
「少し早すぎたかな」
「余裕が必要だったんだよ」
「先輩たちが追いかけてきたらどうしよう」
「まさか……、大丈夫だよ」
 僕たちは先輩たちの追跡を恐れた。
 駅前にタクシーが止まったり、人影が見えたりする度に、ひどく驚いた。確かに、追いかけてくる時間的な余裕はある。可能性もある。
 不安は時間とともに増していく。北陸の異様な寒さが不安に拍車をかけた。
開札のアナウンスがあって、僕たちは一斉に立ち上がった。改札を出て、あわててホームに出る。それでもしばらく汽車は来ない。
 足下がガクガク震えてくる。やがて汽車が見えてきたが、これが信じられないほどゆっくりしている。
 その汽車が僕たちの前で止まる。
 僕たちの不安は頂点に達した。後ろを振り返る勇気もなく、僕たちは目をつぶるように汽車に飛び乗った。
 そして、ドアが閉まると同時に恐怖は吹き飛び、喜びの絶頂になる。
「やった!」
「あははは、やった、やった」
「ついに逃げ出した」
「ざまあ見ろってんだ。やったぜ」
 僕らは万歳と繰り返して抱き合った。そして、疲れ果てて座り込んだ。

 車内は空いていた。
 大塚と僕は同じボックスに向かい合って座った。隣のボックスに同じように品川と渋谷が座った。みんなに用意していたパンや菓子を配った。
「うわ、気が利く」
「さすが、ベテラン」
 少し落ち着いてから大塚が「ついに逃げ出したな」と言った。
「ああ、計画どおり」
「あの二人を見ろよ。その浮かれよう。とても夜逃げしたとは思えない」
「はは、本当だ」
 僕は愉快だった。実に愉快だった。
「組織がねえ、故人を縛るにもほどがあるよ!」
 僕はクラブへの不満をぶちまけた。
「そもそも組織というのはさあ、個人の集まりであって、個人のためにあるものだよ。それが部活は何だ。おかしい。俺は自由が欲しい。あそこは服装とか礼儀とかがうるさすぎる」
「うん、確かに山手には空手は向かないな」
「不平を言うと、1年生のうちは無我夢中になれと言う。こりゃ洗脳だぜ」
「洗脳まではいかがかな」
「人間性も個性もあったもんじゃない。それに甘んじることは精神的な自殺だ。俺はいやだ。俺は戦う」
「戦うって、逃げることが?」
「いや、だからさ。逃走が戦いなんだ。意思表示。最後のデモンストレーションさ。これで待遇が絶対に改善される」
「なるほど」
 まもなく渋谷が大塚の隣に座った。彼はついに逃げ出したと何度か言った。妙に気落ちしたように見える。
「よくわからないんだ。……なんか俺、いつか大塚が止めてくれるのを待っていたような気がするんだ」
「ええ!」
 僕は驚いた。
「渋谷、お前が言いだしたんじゃないか。あれだけ逃げ出したいって言っていたじゃないか」
「そうなんだ。そうなんだけど。あんまりあっさり逃げ出してしまったから」
「ぜんぜんあっさりしていない。大変だったよ」
「そうかな……」
 部活を辞めるとブツブツ言いだしたのは渋谷じゃないか。なんて奴だ。
 そのまましばらく黙った。
 まもなく、品川もこちらに来た。
「しかし、よくも逃げ出した」
 信じられないように言う。冗談じゃない、こいつもか。
「山手はこんなことになると天才的な実行力を発揮する」
「何が言いたいんだ」僕は言い返した。
「俺だったら考えられない。それに山手は楽しんでいる節がある」
「だったら残っていればよかったろ」
「残っていてみろ、俺一人だぞ。みんな俺一人でやるんだ。一人で起きて、一人で先輩を起こして、一人で稽古して、集中攻撃だ。納会になったら一人で飲まされて歌わされて、踊らされて……、地獄だぜ」
 僕は笑い出した。
「山手は楽しんでいる」
 もう一度品川が言った。いい加減こちらも腹が立ってくる。何を言いたいんだかわからない。ややこしい品川の顔がよけいシャクに障る。
「お前だって逃げたかったんだろう。さっきまであんなにはしゃいでいたくせに」
 品川は黙った。みんな黙ったままになった。
 窓が白く濁っている。じっと外を見ていた品川がそれに落書きを始めた。
-不愉快
-板挟み
-ジレンマ
 そりゃ、このライトヘビー級には逃げ出したくなるほどの稽古ではなったかもしれない。それほどきつくもなかったかもしれない。板挟みかもしれない。だからといって何だ。ここんな女々しい真似を。柄にもなくナイーブなポーズをとりやがって。
 僕は品川の顔と落書きを交互に見ていた。
 疲れてため息が出た。眠い。そうだ、まだ寝ていないんだ。
 やがて、汽車は金沢について、3人が降りた。
「山手は降りないのかい」
「新潟まで行く」
 適当に僕は答えた。気が滅入っていた。こんな奴らと一緒にいたくない。
「近いうちに会おう」と大塚が言った。

 汽車は走り始め、僕が一人取り残された。
 気がつけば、同じ列車の中に乗客は5人といない。少し心細くなった。
 直江津で乗り換えれば東京に戻ることができる。だが、それはいやだ。だからといって、何もすることはない。
 俺たちは結局ダメなんだ、と言った渋谷の言葉が思い出された。

 

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