■サンプル ばっちゃの物語

これは何の変哲もないおばあさんの幼少期です。自分史の書き出し部分です。自分史というのは、このようなまったく平凡な話であるということのサンプルになるかと思います。

■幼かったころ

わたしは、昭和10年7月17日に生まれました。 生まれた場所は秋田と岩手の県境の村です。丘陵のような低い山があって、その山裾から30メートルほどの高さの、東側にしがみつくように何軒かの家が一列に並んでいました。その丘陵を越えるとまた山里がわずかにあり、すぐに険しい奥羽山脈となります。わたしの家は、南から2軒目でした。1軒目が本家で大きな家でした。
家から坂を下りると細い道と水路があって、その下に田んぼがありました。何枚か田んぼが続いて、その向こうに丸子川があり、流れに沿って長く森が続いていました。
わたしたちが張り付いていた丘陵は、南へ少し行くと切れ、その端の高台に観音様の神社がありました。松原の観音様と呼ばれ、ずいぶん見晴らしのいい、大きな神社でした。

母親は大変頭のいい人でした。あんなに頭のいい人を見たことがありません。彼女は女だからという理由で上の学校に行けず、わたしの生家に嫁いで来ました。男兄弟は皆国立大学や師範学校を出ています。

父はおとなしい人でした。わたしが小さなころは招集されて戦地にいました。幼いころの父親の印象が薄いのです。体も弱かったのか、40代で亡くなっています。父には姉と妹がいますが、この二人も50歳前後で亡くなっています。

わたしも体が弱く、病気ばかりしている娘でした。何かのウイルスの重い病気になって、何本もの注射を足に打って、その跡が今でも右足付け根に残っているほどです。
体が弱かったせいか、隣村の母親の実家によく預けられました。わたしはそれがいやで、家に帰りたがり、そのためか、子守りを付けられました。若い娘さんでした。その子守りとお手玉を遊んだり、散歩をしたり、いつもくっ付いていました。

昔話を聞くのが好きでした。桃太郎や金太郎、かぐや姫やさるかに合戦、花咲じいさん、鶴の恩返し、いなばの白ウサギ……。
よく知られた昔話だけではありません。地元に伝わる民話もたくさん聞きました。
こんな話がありました。
丸子川を少し下った所に湯竹という部落があり、そこに大きなお屋敷がありました。お屋敷の当主は昔ここではお湯がでていたことを知り、自分もお湯を掘り当てようとしました。しかし、なかなか温泉は出てきません。そんなころ、当主はどこからか「夜中に娘を馬に乗せて走らせるとお湯が湧く」という話を聞き込んできました。これはいいと、当主は夜中になると自分の娘を馬に乗せ、道を走らせたそうです。
いつの時代のことか知りません。これを聞いてから夜中になると裸馬の走る音が聞こえそうで怖く思ったことがあります。

■戦争の話

生家は自作農で、自分の田や畑を持っていました。苦しくはないものの、裕福ではありませんでした。
もう戦争が始まっていました。支那事変が始まったのは昭和12年のことで、物心ついたころには、すでに戦時でした。
若い男子は戦争に召集され、わたしの父もその一人でした。戦争に行くとなると、近所が皆集まり、どぶろくを飲んで、万歳をして見送ります。わたしも家から父を見送った記憶がうっすらとあります。わたしは小さかったから家から見送り、皆は最寄りの奥羽本線飯詰駅まで送りに行ったようです。
父は数カ月間秋田市で訓練を受け、それから中国に渡りました。
戦地だからといって毎日戦争をしているわけではなかったようです。待機している日の方が多く、作戦が実行されると駆り出されて撃ち合いをします。勝てば押し出し、負ければ追われます。

こんなことがあったそうです。その日の作戦は日本軍の負けで、日本兵は皆逃げだし、これを追って敵兵が群がってきました。逃げる人は必死です。今でこそ、負傷兵を担いで助けあいながら退いていったなどと語られていますが、そんなことはありません。負傷兵は見捨てて、元気な兵隊だけが真っ先に駆け出します。すがりついてくる負傷兵がいたら、ふりほどいて逃げるのだそうです。
その日、父は最前線にいて、逃げ遅れてしまいました。それでも、敵兵から逃れようと何もかも捨てて走り出そうとしました。ところが、足を掴むものがいます。負傷兵です。ものすごい強さで抱きつき「助けてけれ」と叫びます。
当然助ける余裕はありません。ふりほどこうとしましたが、向こうも簡単にはあきらめません。そうこうしているうちに、敵兵の姿が見えてきて、すでに逃げる余裕もありません。
仕方ないから、その負傷兵を引っ張って藪の中に隠れました。
運良く、敵兵は二人に気づかず、遠くへ行ってしまいました。
しばらくしてから、安全を確認しながら父は、負傷兵を担ぎ、日本軍の基地に戻りました。
負傷兵は秋田の男鹿の人だったそうです。男鹿は海岸の土地で、内陸の父の村とはとても離れています。
男鹿の人は、負傷兵として日本に帰されました。それでも父を命の恩人として、県境の村のわたしの家を訪ねてきました。戦地の父親からこんな話は聞いていません。男鹿の人を迎え入れ、初めて話を聞きました。お礼を伝えにうちを訪ね、泣きながら感謝の言葉を口にしていました。

父が戦地から戻ってからも、毎年訪ねてきました。
父が死んでからも毎年墓参りに来ました。いい人でした。戦地で命を助けられたのが本当にありがたかったのでしょう。

戦友はもう一人いました。浅舞の人です。この人は文官で、戦地には出ない人のようでした。なぜか父とは気があったようで、しばしば訪ねてきました。

小学校で世界地図をもらって、家で広げて母親に開きました。
「日本はどごど戦争しているんだ?」
母は地図で中国とアメリカを示しました。「こことここだ」というのです。
「へば、日本はどごよ?」
「ここへ」と、母が指さした日本はとても小さな島でした。
「あや、こえたにおっきい国ど戦争してるなが!」
「うんだ」
「これで勝でるべが……」
「勝づ!」
母はとても自信ありげに答えました。
日本の小ささにわたしはびっくりしました。
母は言葉のとおり、誰よりも元気に父を戦場に送り出しました。そのように見えました。勝って帰れと送っていました。日本が勝つとまったく疑いませんでした。回りには泣く人もいましたが、母は涙一つこぼしませんでした。
一番元気に父を送り出し、その後で、誰にも見られず、一人で泣いているのも母でした。

終戦間際のころでしょうか。
隣町の山裾を開拓して、広大な飛行機場をつくる計画が持ち上がりました。中学校の東側から東山にかけての平らな土地を飛行場にするというのです。
そのために、多くの作業員が必要となり、観音様の神社の高台に収容所が建てられました。
うちの裏の山にも兵舎ができました。
それだけで収容しきれず、わたしのうちにも学生が何人かを泊めることになりました。
空いていた神の間に泊めました。学生さんたちは夜になると、家恋しくなってシクシクと泣いていました。

山あいにひっそりとつくった滑走路でしたが、どういうわけか、米軍に見つけられ、空襲を受けました。始めて見る米軍機であり、始めて受ける空襲でした。建設中の滑走路にパラパラと爆弾がばらまかれます。
おおあわてで、皆が逃げ出しました。
のんびりしている人が一人だけいました。母の実家のおじいさんです。母の父です。よく娘の嫁ぎ先に顔を見せていました。
「あんな高い所飛んでいる飛行機に人間が見えるわけがない」そういって、帽子をかぶって歩いて帰っていきました。日露戦争の兵役経験者です。だからあんなに余裕があったのかもしれません。
ところが母は白い割烹着になり、竹槍を持って玄関に立ちました。もしも米英が着たら竹槍で追い払おうというのです。あんなに頭のいい人なのに何を考えているのだろうと不思議でした。本当に米英がこんな所まで来ると思ったのでしょうか。父のいない自分の家を守ろうとしたのでしょうか。

■小学校に入学

六歳で小学校に入りました。村に一つの小学校でした。
うちから小学校まで道らしい道はなく、用水路の土堤や田んぼのあぜ道をわたって通いました。湯竹には大きなお屋敷があり、そこから道がつくられており、そこで汚れた足を洗って小学校へ入ったものです。クラスは学年1クラス、40人ちょっとでした。

小学校に入った1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まっています。学校に入ってもほとんど授業らしい授業がありませんでした。裏山に行ってみんなで杉の葉を拾う毎日でした。
そのころは、なんで杉の葉を拾うのかわかりませんでした。後で聞くと、杉の葉を売って、生徒用の帳面を買ったり、鉛筆を買ったり、白墨代にしていたそうです。そんな時代でした。

小学校5年生からは工事に狩り出されました。わたしが4年生の時に戦争は終わりましたから、工事をせずに済みました。

町では防空壕をつくっていたそうです。山の村では山の中に防空用の小屋を作ることになりました。もし敵の飛行機が責めてきたら、皆で逃げ込む小屋でした。大きな兵舎もつくりました。

小学校5年生のときに、大雨が降ったことがあります。この大雨で山の上の地割れに雨水がたまり、土砂崩れが起きそうになりました。
明治時代にとても大きな地震があり、山の上を南北に地割れができていました。地割れは30キロほど続いているそうです。
大雨で地盤が弱くなり、皆が小学校に土砂崩れの土石流が行くと口にしていました。土石流がきたら小学校はひとたまりもありません。これでは学校に行けなくなってしまうと、わたしも心配になりました。
しかし、土石流は小学校からそれて湯竹のお館様の屋敷に向かい、お屋敷が流されてしまいました。
お館様のうちでは家督相続で揉めていました。
「バチが当だったんだ」とみんなが噂していました。

この学校も何十年も前に廃校になっています。廃校になって何にも使われなくなっているはずです。

■終戦

小学校4年生の夏に終戦を迎えました。
田の草取りをするころでした。

秋田市の土崎が空襲を受けたのは終戦が決まっていたはずの8月14日の夜中からです。記録によると、8月14日22時半から翌日3時半まで続いたそうです。死者は250人以上、負傷者は200人以上となっています。
アメリカの戦闘機が、太平洋側から奥羽山脈を越え土崎の製油所に向かいます。奥羽山脈の麓にあるわたしの村からも,爆撃機が飛んでいく音が聞こえました。
爆撃機の通り過ぎた後には、西から爆発の音が聞こえました。あんなに遠くにある土崎からこんな山奥にまで聞こえてくるのですから、よほど大きな爆発だったのでしょう。
秋田県の土崎港には日本有数の油田と製油所がありました。

8月15日、部落の会長が役場に行ったら、たまたま玉音放送があって、帰ってから近所のみんなに敗戦を伝えました。
そして「今日の夜にラジオで玉音の再放送があるので、一家に一人ラジオを聞ぎに来るごど」と、隣部落のラジオのあるうちを指示されました。

うちからは兵役を解除されて自宅に戻っていた父親が聞きに行きました。
帰ってきてから家族が聞きます。天皇陛下が何を言っていたかを。
「わがらねな。でっきりわがらねがった」
というばかりです。家族はみんなあきれました。父親は子どものころから耳が悪い人で、家族はなんて役立たない人だとあきれ返ったものでした。
しかし、だいぶんたってからわたしも何度か玉音放送の風景を見たり聞いたりしました。あの途切れ途切れの声だけで何を言っているか理解できた人は少なかったでしょう。たとえ聞くことができても、負けたとわかったでしょうか。周囲から戦争が終わったと、日本は負けたのだと聞いて、納得したように思います。

戦争が終わっても、子どものわたしの回りでは大きな変化はありませんでした。山は青く、セミがやかましく鳴いていました。大人は働いていましたし、農作物はいつものように収穫できました。
天皇陛下よりも偉い人がいたことは驚きでした。マッカーサーがアメリカから日本に来て、統治するようになり、この人が一番偉くなりました。
それまで「天皇陛下の命令だ」といっていた遊び言葉が「マッカーサーの命令だ」に変わりました。けんかを止めさせる時も掃除をさせる時も「マッカーサーの命令だ」というのです。
大人も天皇陛下のことを言わなくなりました。民主主義になって、学校教育も戦時体制から今風のものになったと思います。
山の上の兵舎は各部落に払い下げられ、集会用の会館になりました。

母親はいつも「絶対に勝つ」と言い張っていましたが、気が抜けたように元気がなくなりました。
母親の兄がフィリピンに行って帰ってきません。紙切れ一枚で死んだ知らせがきましたが、骨が返ってきたわけではありません。東北大学を出て、満鉄に入って兵役でフィリピンでなくなったようです。
それが信じられなくて、母は何度か「ほとげおろし」に聞きにいったそうです。亡くなった方の言葉を降ろす人で、恐山のイタコのような仕事です。ほどなくそれも止めて、帰ってこないことを納得したようです。
同時に「学校さな行っても何の役さも立だね。行く必要ね」とまで言うようになりました。

戦争が終わった次の年、爆撃された飛行場で未使用の弾薬の処理がありました。秋田の駐屯地辺りから集めた爆弾が山のように積まれ、火を付けて爆発させます。
珍しいからみんなで見に行きました。子どもたちも見に行きます。大きな音で次々に爆発し、辺りが真っ赤になりました。花火を見るような感覚です。遠くから見ているのですが、大きく弾けるものですから、破片や鉄砲の弾やらっきょうが見物席にまで飛来してきます。
怖いものだとわからず、子どもたちがそれを集め、持ち帰って、学校で問題となりました。
「拾ってきた爆薬を校庭に出しなさい」と命令されました。小さな山になるほど爆弾が集まりました。

戦争に負けた次の年から農地改革が行われました。マッカーサーの命令です。
わたしのうちは自作農でしたから、ほとんど影響がありませんでした。
この辺りの人たちは寺田さんという地主の田んぼを借りていました。広く田んぼを持っている地主で、うちはその番頭のようなことをやっていました。その番頭の仕事がずいぶんなくなりました。
それでも寺田さんは山を30町歩から40町歩ほど持っており、これは没収されていません。戦後、その山に杉を植える仕事があり、10キロほど離れた苗場から杉の苗を山の上まで運んだ記憶があります。

■中学生のころ

戦後、学制が変わり六三三四制になり、わたしは小学校を出て中学生になりました。
2年生になったら、遠かった中学校とわたしのうちの真ん中ほどに、新しい中学校ができて、そこに転入することになりました。これも近所の子はみんなそうでした。
1クラスは40人ほど、ABCの3クラスがありました。
もう戦後で普通に授業を受けることができました。戦争が終わってできた中学の4期生でした。
できたばかりの中学校で、校舎はできたものの、校庭が整備されていません。その整備に生徒は狩り出され、みんなで桜の木を植えたのを覚えています。わたしの子どもたちが同じ中学に入るころは見事な桜に成長し、5月の連休のころは運動会と花見を楽しむことができました。
戦争が終わって弟が二人生まれました。戦争中に生まれた女の子もおり、長女のわたしは子守りに追われていました。
朝起きると家族の朝ご飯をこしらえて、自分の弁当もつくって学校へ行きました。
たいていはお弁当を食べると帰宅して、子守りをしていました。午後の授業はほとんど受けたことがありません。
「学校なんて行ぐ必要ね」というのが母の口癖でした。
クラスで10人ぐらいは高校に進学しました。その他のほとんどはそのまま実家を手伝ったり、就職したりしてします。

田沢疎水が来たのも中学生のころです。それまで原生林が広がって、その間に田んぼがあるような風景でした。この辺りの田は仏沢のため池によって灌漑されたもので、このため池は地主の寺田さんがつくったそうです。
田沢疎水はため池とは規模が違っており、田沢湖から仙北平野に水を引き込んでくるものでした。戦後の復興や食糧難を克服するため、大がかりな工事が行われ、通学路がそのかんがい工事に当たっていました。学校に着くころは足が泥だらけで、先生に驚かれたものです。
これで千屋も畑屋も原生林がなくなり、田んぼが増え、見渡す限りの田園風景になりました。仙北平野は生まれ変わり、「日本一の穀倉地帯」だと教えられました。

■嫁入り前

中学校を卒業すると弟たちも手がかからなくなり、農閑期は和裁に通うようになりました。朝日町に教える家があり、2年間通って、着物も縫えるようになりました。若い娘さんが習っており、常時7から8人ほどいました。
洋裁も学びました。寺田さんの家で洋裁の教室を開いていて、ここにも通いました。洋裁は基礎程度で終わりました。

続く

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